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Columun|想像上の風景を探した話。新潟県見附市を好きになった理由

草原のような緑が好きだ。自分にとっていちばん幸せな光景を思い浮かべてみようと思うと、まずは原っぱに寝転んで見上げる青空、耳元でこそばゆい草の音、視界の途切れ目で額縁のように連なる山々。場面が変わる。白い砂浜、波の音が聞こえつつ、見ているのは眩しくも暑すぎない光を放つ太陽のある空。

高校生のときに、映画の脚本の仕事をした。自分自身と時間を持て余し、書いては送りつける、を繰り返していたら、仕事になった。そのときの私は今のように、私がどんな形をしているのかが知りたいわけではなかったと思う。ただもっと幼いころ、毎日のように前触れもなく突然飛び込んできたあの風景に近づきたくて、そこに至れそうな物語とともに生きていた。

何かを書く、ということは自分の見たい風景を探す旅であって、少し歳を重ねた今となってはそれによって自分の輪郭をなぞるような営みにもなっている。私は私の内面について、あまり直視したくないのだろう。

高校を卒業したとき、大学を選ばなかった。受験もしたし、選択肢はいろいろあった。その中から私は何もしないこと選び、まだまだ家族を安心させなかった。今もそれを「必要な時間だったね」と笑ってくれるけれど、悪いことをしたなと思っている。だから生きていかないといけないのだ。できるだけ早く。

高校を卒業してしまったら、何もしないのだから暇だ。早寝早起きもしなくていい。真夏に差し掛かって寝苦しくなってくると、朝7時に眠って昼過ぎに起きた。実家の窓から差し込んでくる、東側の朝陽が好きなのだ。それを浴びて暖色に染まった部屋を眺める前に眠るわけにはいかなかった。だから夕方からのそのそと動きはじめ、夜中の間はひたすら仕事のものを書いたり個人的なものを書いたりした。私のことがわりと好きだった友人と電話をつなぎっぱなしにしたりもした。付き合ってもいないのに、よく付き合ってくれたと思う。

そんなこんなで暗がりの中暮らしていたあるとき、うわ、やばい。原っぱに行こう、と思ったのだ。
件の友人を叩き起こし、とりあえず新潟へ。とはいえ新潟県は初心者には縦に長すぎるので、真ん中らへんで新幹線を降りた。長岡駅のスタバでひと休みしてから在来線に乗り換える。電車の扉を、ボタンを押して自分で開閉できると知ってわくわくする。しかも車内にはボックス席があって、これはもう遠足に違いなかった。進行方向に向かって座り、電車が動きはじめて少し走ると、現れるのだ。原っぱが。

そうして、見附駅で降りた。その当時は駅前にロータリーと立体駐輪場、旅館があって、その周りは工場と住宅街。いちばん近いセブンイレブンまでは300mほどあった。そこまでの道中に「プリンパン」がとてもおいしいパン屋さんがあるのだけれど、そのお店と出会うのはまた先のお話。真昼の炎天下、駅周辺の住宅街をゆらゆらと歩いた。

全身の水分が抜け落ちていく。今でこそ途中のミスドやガストで休憩することを心得ているけれど、真夏の遮るものがない見附でのハイキングはなかなかにハードだ。途中のコンビニでアイスを買い、イートインで休んで、長居するのもな、とそそくさ退散する。そんな道のりを進んで数時間だろうか。私たちは見つけた。探し求めていた原っぱが開けた。

9月の田んぼはのびのびと育った稲を蓄え、やや黄色に褪せはじめた草原のような緑を広げている。向こうの山まで遮るものもない。栃木出身の私は田んぼを見る機会はいくらでもあったけれど、こんなにビニールハウスもなく、草原の真ん中を道が通ってどこまでも行けそうな風景ははじめてだった。

見たことがないのに思い浮かび続けた景色を探して、見つけられる。そういう機会はあまりない。生きていて何事、想像どおりになるわけじゃないし、そうあってほしいとも思わない。けれど何億個かのひと粒が、思い焦がれた原っぱだったりする。

見附にあの田んぼがあったから、私は今でも想像にしかない世界を追いかけて生きていられるのだと思う。

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